1964年の東京オリンピックでセイコーは公式時計の担当メーカーとなりました。これはセイコーが日本のメーカーであったことが理由ではなく、担当メーカーに相応しい高度な「計測」技術を持っていると認められたからに他なりません。公式時計の担当メーカー選定において、セイコーの技術を関係機関に知らしめたのが第二精工舎(※)製の高性能ストップウォッチでした。 それまでの機械式ストップウォッチを使った手動測定には誤差はつきもので、その誤差は測定員の技量に多くの要因があるとされてきました。コンマ1秒以下を競う陸上競技の公式タイム計測では、10名の測定員が計測したタイムの平均値を採用していたほど。 第二精工舎の技術陣はこれに疑問を持ち、要因の多くがストップウォッチそのもにあると仮定、その要因解明と測定誤差を補正するストップウォッチの開発を進めていきます。 まず「誤差は測定員の技量に多くの要因がある」という通説を検証するため、複数のアナログ・ストップウォッチのスタートを電子回路で制御し“誤差なく”行ったところ、それでも複数のアナログ・ストップウォッチの計測値は同じになりませんでした。つまりそれまで考えられていた「測定員の技量」という誤差の要因を排しても、計測結果の誤差はなくならなかったのです。この実験により誤差はストップウォッチそのものに大きな要因があることを証明しました。第二精工舎の技術陣は「誤差はスタート時にテンプを蹴飛ばしていることに関係がある」と考えます。 当時の機械式ストップウォッチはテンプに加速をつけるためにスタート時にテンプを“蹴る”構造を持たせていました。またスタート・ストップ時のテンプ停止位置がまちまちであることも、この“蹴る”動作を必要としていたのです。 そこで第二精工舎の技術陣は「テンプを蹴る動作を排したストップウォッチ」の開発を進めることになりました。試行錯誤の中、導き出されたアイデアが、テンプの軸にハートカムを配し、ストップ時に専用のハンマーがこのハートカムをたたく仕組み。このことでストップ時にテンプが必ず同じ位置(姿勢)で止まることを可能としました。これはスタート時にテンプを“蹴る”ことを不必要にしたことも意味します。これにより、それまでの製品とは比較にならないほどの正確な計測を可能とするストップウォッチが完成しました。さらにストップ時に目盛りの間に計測針が来た場合、自動的に数値を四捨五入して必ず目盛上に針が止まる機構も同時開発しています。 この第二精工舎のストップウォッチの開発と、東京オリンピックの公式時計メーカー選定の時期が重なりました。セイコーは世界陸連のオリンピック使用機材を決定するテクニカル・コミッティーにこのストップウォッチ(1/5秒計スプリットセコンド・1/10秒計スプリットセコンド)を送り込みます。1962年9月、ユーゴスラビアのベオグラードにて開催された同会議の席で、セイコーのストップウォッチを試験したのは、国際陸連名誉セレクタリーのペイン氏と国際陸連理事のポーレン氏。事前にセイコーにも知らされていなかった試験の方法とは、両手にストップウォッチを持ち、同時にスタート、ストップそしてその誤差を見るというもの。それを数秒、数分、1時間で行ったとのこと。そしてその結果は全てのテストにおいて0.1秒の誤差もない完全なるものでした。 セイコーは機械式ストップウォッチの計測には(大きな)誤差が生じるという“常識”を見事、ブレークスルーし、この会議の場で同社製ストップウォッチの陸上競技公式使用を決定付けました。これを突破口にしてセイコーは東京オリンピックの公式時計担当メーカーとなったのです。オリンピック期間中は、開発初期のクオーツ時計や光電管を使った着順判定機、観客用タイム表示装置、計時記録を打ち出すポータブルプリンターなど多種多様な計時機材をフル投入、フル稼動し、セイコーグループの総力を上げたオリンピック・プロジェクトが展開されました。
今回、紹介するストップウォッチは東京オリンピックで使われたものと同じ1/10秒計スプリットセコンド。世界のトップアスリートの公式タイムを計測するために開発された製品であり、ケースからはただならぬ雰囲気も伝わってきます。前述の通り、テンプを“蹴る”構造を排したことから、スタートの動作は十分な初速を持ちながらも非常に滑らか。バレルもスプリットセコンドに相応しい強力なものを採用してるようです。 ストップウォッチの動作は完璧でスプリット動作や帰零も非常に高速。一方で動作のひとつひとつにはぶれがなく、非常に滑らかです。この機械式ストップウォッチは計測機として超一級品であるだけではなく、日本の優れた技術力を世界に示すチャンスを作った功労者だと言えるかもしれません。 2004.7 update 参考資料/THE SEIKO BOOK〜セイコー腕時計の軌跡〜 徳間書店 |
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左の可動時ではテンプが高速回転しているのが分かります。停止時にはテンプ左下にあるハンマーがテンプ根元のハートカムを叩き、テンプは決められた位置(姿勢)でストップ。ハートカムは機械式クロノグラフの計測針をリセット(帰零)する構造に使われていますが、これをテンプに応用したのはセイコー(第二精工舎)が初めて。テンプは計測機の心臓部であるために、ハートカムの素材選択にも神経を使ったとのこと。 |
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左の設計図にあるテンプ中央にハートカムが確認できます。右の設計図はハートカム。カムの形状(ハート)により、これにハンマーが当たるとテンプはいつでも同じ位置(左図の状態)で停止します。 |